かつて夢と現実はひと続きだった
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アメリカインディアンの伝説にこんな話があります。
昔、西の空に珍しい星がまたたきはじめました。
村の人々は
「これは吉兆か、それとも不吉な前触れか?」
と疑心暗鬼になりました。
ところが、ある夜、若い酋長の夢に美しい女性が現れて、彼に語りかけてきたのです。
「私は、西の星の精です。外界があまりにも美しいので、空から下りてそこに住みたいと思います。何に生まれ変われば、人々は私を愛してくれるのでしょうか?」
目が覚めた酋長は、部族の賢者に相談をした上で、星に呼びかけました。
「私たちは、山に咲く白い野ばらが大好きです。あなたの美しさそのままの野ばらに生まれ変わってくれたら、私たちはあなたを愛さずにはいられないでしょう」
しばらくすると、星の精はまた、酋長の夢に現れました。
「山のばらに生まれ変わったら、人がやってくるまで、誰にも知られず、ひっそりと咲いていなければなりません。でも、野ばらのまま平地に降りていったら、水牛の蹄に踏み潰されてしまいます。そこで私は、人々に見てもらえる平地で、しかも安全な沼や池に住むことにしました」
翌日、人々は、沼の上に浮かんでいる白い花を見つけました。それはまさに、星の形をした美しい水蓮だったのです。
このインディアンの部族では、夢は、現実から隔絶された異界、個人にだけ属する精神世界であるとは考えられていなかったようです。
むしろ、夢と現実は、ひと続きの次元として捉えられていたと思われます。
夢で見たことを真剣に受け止め、現実の世界に「美しい花」を咲かせるために、人々が努力している様子が描かれています。
夢と現実をあえて区別しなかった例は、古代においては世界中に見られます。
たとえば、コロンビアのウイトト・インディアンの神話では、「救世主である"父"が自らの夢と幻影を素材にして、それに魔法の物質を与え、踏みしめた。繰り返し踏み固めるうちに、それは大地となった」というくだりがあります。
救世主の「父」の別名を、
「夢、または夢見る者」
といいます。この世界は夢から作られたのだから、私たちの体験する現実は、夢の延長線上にあると考えていたわけです。
また、古代インドでも、夜見る夢の続きとして明日の現実がある、明日は、夢が教えてくれることを成し遂げるように生きればいい、と考えられていました。
夢を現実から切り離して考えないことが、これらのような古代の人々のとっての「夢活用術」だったのでしょう。